何事もなければいいのだけど・・・・

サンデーで荒川弘さんの連載が始まって、農業高校が舞台ということだけど、話の内容的には百姓貴族で書いていたことをもとに話を書くという印象ですが、まあ、この時期にこういうネタを引っ張ってくるのは運がいいのか悪いのか。
二番煎じのネタが目立つとはいえ、時々、こういうネタの引っ張り方をしてくるわけだが、途中でもめないといいのだけどねえ・・・。

雷句氏の訴訟騒動で少しは懲りたのではと思っている人もいるそうですが、小学館レーベルでライトのベル書いているある作家さんのブログの記事読んだ後だと、小学館の体質って、ちょっとやそっとじゃ変わらんのねと痛感させられたことがあるし(その作家さん(基本的にギャグ気質)にはやっているから恋愛ものを書けというようなことを言ってた)、うちの近所でもサンデーが珍しく売り切れるような事態になってるわけだけど、当たり障りが無い、そうでなくても、アッサリしすぎた無難な話にまとまるようなオチになるんじゃないかと、不安になってしょうがないのだが、サンデーだと。

百姓貴族は新書館のウンポコで最初連載されていたわけですが、この雑誌、
ギャグ専門雑誌ということで05年春に創刊されて、09年に休刊になった雑誌ですが、
百姓貴族は06年の終わりのほうから始まったエッセイマンガなのですが、この雑誌、きらら関係の作家を引っ張ってきたたり、「みそらら」や「恋愛ラボ」を連載している宮原るりさんがWEBで連載していた「となりのネネ子さん」を、前述の二作品よりも先に掲載するなど、いろいろとやっていたわけだが、ウィングス系列の雑誌で何が見どころかといえば、エッセイ関係が面白いものが多くて、百姓貴族もそうだが、暴れん坊本屋さん、エイキエイキのぶっちゃけ隊、創刊号でひときわインパクトを放った「あなたの町の生きているのか、死んでいるのかわからない店探訪します」という連載で、営業しているのか、していないのかわからない店に突撃取材するという連載なのだが、一話の中華料理店の衝撃がでかすぎて、2回目以降の内容が普通に見えてしまった(冷静に考えてみると、結構ヤバイ店がいくつもあったのだが)くらいで。四回目に同行した声優の岩田光央さんに、正座させられて、たった三回ですっかり舌がおかしくなっていると突っ込みを入れられてしまう始末(汗)

さすがに、連載は6回で終了したが、リアルタイムで読んでた身としては、最初のインパクトがでかすぎて、後の回が普通に見えてしまった気がする(今、読み返すとそうでもないのだが)。序盤がやたら面白い作品って、意外と、その後の展開がそれを越えないことが多いのだからなあ・・・・。

しかも、この雑誌、ハヤテよりも先に必殺技を出す執事をやっていたし、ハヤテを反面教師にしているのか、執事コメディとして、面白い話を描こうとしている姿勢がみうけられるのだが、その作品、ハヤテよりも前に執事コメディやってるわけだし、しかも後から出てきて、表面上だけ執事コメディやってる作品に執事コメディの代表格みたいなツラされて、ふんぞり返られたら、いい気分はしないわな。
ハヤテを反面教師にしたのか、ハヤテに近い要素を持つあるキャラなどはいつのまにかフェードアウトしちゃったし。ハヤテとまったく同じというよりかは、ハヤテの場合は、似たような要素を持つけど、変に優しいとか可愛そうな要素とかを強調しすぎて、都合の悪い部分を描こうとしなかったから、いびつになっちゃってたところがありますからねえ。主役も性悪執事としてみても、さして、不愉快なキャラには見えないし、そのキャラを生かしきって、話を描いていますから。

百姓貴族を描けたのも、この雑誌ならではの部分は確かにあったと思うのだが、サンデーで果たして、そういう部分まで描かせてもらえるのだろうか、と気になってしまうのだけど。

しかし、荒川さんに百姓貴族を髣髴とさせるネタを引っ張ってくるなら、○田○でも引っ張ってきて、執事もの描いてもらうくらいやればいいのにねえ、と思ったのは私だけかねえ。

前に寺沢大介氏がビックコミックオリジナルで修理もん研究室というマンガを描いていたわけですが、内容としては悪くは無かったのだけど、この修理もん研究室という作品は、主人公は恐竜の化石の研究をする学者で、実家が漆職人をやっていて、その跡を継がなかったことも大きく関係しているのですが、多彩な修復技術を有しているという人物で、恐竜の化石版喰いタンみたいな話なのですが、喰いタンから油ッ気を抜いて、さらにアッサリ目にした作品という印象を持った(これはこれで面白いのは確かなのだけどね)わけで。

喰いタンというのは、常人離れという言葉すら生ぬるい食欲の権化の高野聖也(一応、本業小説家)が、その胃袋と食欲と、それに直結した食べ物が中心となっている豊富な知識を総動員して、関わった事件を解決していくという内容で、主人公のギラギラした食欲はもとより、欲望の描き方というのがうまい作品だったと思うのですが、修理もん研究室はそういうギラギラした部分を必要以上にそぎ落とした上で、いい話しにまとめようとしたそういう印象を受けてしまうわけで。

鋼の錬金術師も欲望を取り扱う作品でしたし、そもそも、この作品、私は、荒川さんの作品は少年漫画ではないと思っているの(いくつか、ハガレンが批判されている部分でそうみうけられる部分がある)。

そういう部分があるので、百姓貴族で書いてたノリがそのまま描けるとは到底思えない理由でもあります。

鋼の錬金術師は人体練成のよって、兄は腕とアシを、弟は体を失い、それを取り戻すために錬金術を学んで、国家錬金術師になって、あっちこっちを旅していたところに、国家の暗部と関わるハメになり、国家を敵に回して、一度は捉われるものの、自力で抜け出して、国家の暗部に巣食うものが国全土を生贄に捧げる計画をぶち壊し、その過程で、兄は腕を、弟は体を取り返し、広い世界に出て、勉学のたびに出るというものであったが、主役であるエルリック兄弟は、少年漫画の主役にしては少々、毛色が違うのではないか、と思えてしまう。
というのも、少年漫画の主人公というのは、ルールブレイカーであり、新たな秩序の構築者でもある。
ところが、エルリック兄弟はルールの構築者のモデルとなった人物の子どもであっても、錬金術を学んで、という風に最初からルールの枠の中にいる人物であり、その中で最強クラスの錬金術師となって、各地を旅しているところからのスタート。そういう部分が少年漫画的といえばそこまでかもしれないが、少年漫画の主人公的立ち位置のキャラは、エルリック兄弟のほかにも作中で出ているシンからきたリン・ヤオ一行やメイ・チャンであり、東の大国シンの練丹術を知る彼らがアメストリスの錬金術はおかしいというスカーの兄が言ってたことを裏付け、そのことにスカーに気付かせる役割を果たしていたし、リンやメイの視点から描いてれば、それこそ、少年漫画的体裁になってたはずである。しかもリンはシンに帰って、シンの皇帝になっており、名実共に、秩序を構築する側になっている。

しかも、エルリック兄弟が体を取り戻すくだりは、エドの腕が戻るのはアルが自らの魂を鎧に定着させていたことを代価に兄の腕を取り戻し、エドがあるの体を取り戻して、アルを連れ戻すのも、最後まで考えるのをやめなかった、ある意味、知恵の勝利だったわけで、えてして、力の論理に偏りがちな少年漫画ではだんだんと成し遂げにくいことではなかっただろうか?

しかも、原作と、03年に放映された水島版鋼の錬金術師では、このあたりのくだりは似ているようで、違っている。アニメでは、エドは己の体を代価に弟の体を取り戻し、劇場版ではホーエンハイムは自らの体を代価に現実世界からアメストリスへの道を拓く。
エドがアルの体を練成したのは錬金術の真実を知り、一度は新しい体を手に入れた後のことであり、アルの体を練成した後は、最初はアメストリスに戻ろうともがくも(弟のことが心配なので)、それも出来ないと知って、現実世界で生きていくしかないとあきらめて、日々をすごしていて、現実世界のことなど、どこか他人事だったし、アルはアルでエドを見つけることしかなくて、そのためにラースが己のみを代価にして、世界をつなげて、向こうの現実世界から、アメストリスを滅ぼそうとするエッカルトを呼び込む結果になってしまう。
自分のいる場所がどこであろうと、そこは自分のいる世界であり、その中で力の限り生きていくしかない、という理屈はともかくとして、その姿勢にはどこかしらネガティブな要素が強く入っていたのではないか、と今だったら思えてしまう。
その違いが一番顕著なのは、ホーエンハイムの顛末で、父親だから、息子のために何かしてやりたい
という思いがありながらも、劇場版のエドはホーエンハイムを止めれなかった、原作のエドはホーエンハイムを止め、ホーエンハイムはトリシャの墓の前で静かに逝く。

その違いはといえば、どんな状況でも最後まで、自らの心を裏切ることなく、生きることをあきらめなかったということではなかったか、と思えてしまう。

ハガレンでは、賢者の石が人を原材料にして生み出されていたことを知ったエルリック兄弟は、それを使わずに元の体に戻ることを決意し、結果として、それを成し遂げる。
もっとも、その代償に錬金術師としての力を失いはするものの、そこから先の人生を生きていくのに、悲壮感みたいなものは漂ってはおらず、生きていこうとするたくましさの方を強く感じる。

ダークファンタジーにしてはやさしいという指摘を見たことがあるが、

クライマックスの一幕で、ラスボスであったホムンクルスに与していた将校に対して、安全なところにふんぞり返っているヤツが、犠牲を崇高なもののように語るなとオリビエが語ったセリフがあったが、ホムンクルスが、アメストリスという国そのものを代価にして、国家練成陣で、神の力を得ようとしていたことや、等価交換も見方を変えなくても、十分に力の論理であるし、それにしたがっていた将校達の言っている事もまた力の論理である。

ハガレンが優しいとすれば、それはおそらく、少年漫画が陥りやすい力の論理一辺倒にはまらなかった(その部分が少年漫画として読んでいた人の中には癪にさわっている要素なのかもしれないが)ということなのだろうし、だからこそ、賢者の石を使ってのアルの奪還も、父親の命を代価にすることも最後まで、拒み通した。

百姓貴族を読むと、力の論理=世間の農業に対するそのときそのときの流れで農業に対して、コロコロ変わる世間の食料に対する意見なのだと思うが。

そういったものに負るものか、という怒りや気概は百姓貴族を読んでいても、十二分に伝わっていると思う。

余談だが、最近の特撮に関して、腑に落ちないというか、納得できない部分が大きいのも、実のところ、こういう力の論理に偏りすぎているキライが強いからである。

銀の匙でも、農業とは縁もゆかりも無い少年が農業高校に入ってくるという設定自体、どんな場所でも、どんな状況でも生きていこうとする荒俣作品のスタイルに近いものがあるわけだが、サンデーで百姓貴族で描けていたことをどこまで書かせてもらえるのか、甚だ疑問ではあるが。

サンデーに限らず、少年漫画といっても、力の論理に偏りすぎてるきらいはあると思うし、私が感想書いていたハヤテだって、あれもいろいろな意味で、少年漫画的すぎてますからねえ。
いい話にまとめようというキライが強すぎて、荒川氏の持ち味までもがそぎ落とされるようなことにならなければいいのだけど。まあ、サンデーでなくても、「あなたの町の~」みたいな企画を実行に移す気概のアル編集部、そうそうあるとは思えないが。

ガッシュも結局は、そっちに偏ってしまったけど、あれはサンデー編集部の責任も大きかったろうし。
雷句氏にも原因があったにしても、怒らせて、飛び出してしまった時点で、編集部が手綱を取れなかったのは明らかだし。まあ、ガッシュに関しては、ファウード編の後半から普通の少年漫画みたいになってしまいましたが、ファウード編の前半はのろいをかけられた魔物のパートナーを助けることを選ぶか、ファウードの封印を解いて、人間界でアバレさせるのを受け入れるか、の選択肢を突きつけられ、清麿が己の頭脳を最大限に駆使して、それを両立させて、なおかつファウードを魔界に返すということを実現したわけで、少年漫画の醍醐味を描いたことにつきていて、後半以降は強いやつが勝つというバトルマンガで当たり前のことを当たり前に描いていたのと、訴訟騒動で明らかになった実情があったわけですが、雷句氏の手綱を取れなかった時点で、サンデー編集部の手落ちは明らかだと思っていますし。

銀の匙でも、主人公は農業等に関係の無い人間で、寮があるからという理由で入学してきた設定で描かれており、鋼の錬金術師よりも少年漫画寄りな話の書き方をされているのですが、小学館やサンデーのスタイルに合わせたといえばそれまでかもしれませんが、そういうスタイルに合わせることを必要以上に要求しすぎると、修理もん研究室みたいに脂の抜けた作品になりかねないのですけどね。

先日、岳が劇場版になった関係でサンデーに掲載されていて、その岳が掲載されているビックコミックオリジナルで、荒俣さんの新連載と方向性が近い作品である玄米先生のお弁当箱の連載が終了したタイミングといい、まさか、ビックコミックの読者層を引き込もうとか考えているのじゃないだろうなあ?
とか思えてしまう部分もあるんだけど、そういう客層を取り込もうとするのはいいけど、そういう客層を引き込めるように話を作っていこうとする気概があるのかどうか、怪しいものですが。

サンデーにとって、金の卵を産むニワトリといってもいい増刊が5年も隔月雑誌やってて、増刊で作家を育てるシステムがダメになったから、よそで受けた作家やそのファン層を引っ張ろうとしているやり方になっちゃったのかもしれないが、増刊で実力をつけた人を引っ張ってくるやり方自体危ういやり方なんですけどね。
だって、その雑誌で一番人気の作家を引っこ抜かれたら、その雑誌見ようって人、どれだけ残ります?
随分と前の話になるが、メジャー描いてた満田氏がその前に連載していた健太やりますは、最初は増刊で描いていたのだが、人気が出たからか、週刊の方に移っていって、その後で、同じく増刊で人気のあった今日からオレは、も週刊に移っていったわけで、実力をつけて新しいステージにいくのは当然かもしれないが、人気が出た、実力がついたとかで持って行っちゃうけど、その後も増刊読み続けようという気になる人がどれだけ残るか、怪しいものですし。
実力をつける場として維持するために見ている人間ひきつける工夫がそんなにされていたとは思えないわけで。一度完結させてから、週刊で再構成して、スタートさせるにしても焼け石に水だったみたいですし。

再月刊化やクラブサンデーとかで作家を養成しているけど、作家を育てても、編集が育ってなきゃ、雷句事件の反省生かせているとは思えないし。
増刊とかで作家を育てるようなシステムは作れてはいたけど、結局、いいとこ取りでしかなかったし、引っ張ってきてから、作家や作品を育てるようなシステム、とりわけ編集を育てるようなシステムとかを構築できていなかったのは、雷句氏の訴訟事件で明らかだろうからなあ。
雷句氏の人格にも問題あるような話も聞くけど、

人気作家の手綱を取れなかったことには変わりないわけで。

荒川氏も小学館は担当がいい加減だから、やめたとかいうはなしはきいたことあるけど、そういうところでまた連載をするのって、編集に余計な口出しさせないような約束でも取り付けたということかな?
それくらいやらにゃ、サンデーに作品を育てるような器量あるとは思えないからなあ。
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by kwanp | 2011-05-06 13:40 | コミックス
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