2005年 05月 31日 ( 1 )

そういえば、どこかで見た気がしていたのですが

http://www.g-cans.jp/photo/index.html

今回の響鬼で、威吹鬼とオオナマズが戦ったのが、仮面ライダーファイズ最終回で、三人のライダーとオルフェノクの王が戦った場所と同じだそうです。偶然なのか、ファイズでは、ロボットに変形するバイク・オートバジンがファイズブラスターを、今回はあきらが烈風を、というように、切り札となる武器を持って駆けつけるというシチュエーションまで一緒でした。

しかし、ファイズはジェットスライガーといい、オートバジンといい(劇場版とTV版最終回)、専用バイクをぽんぽん壊す話でしたよね・・・。ジェットスライガーにいたってはたった4回でしたしね。オートバジンがロボットに変形するという設定も、さほど、生かされているとは思えませんでしたし、単なる移動手段以上のものはなかったような気がしますからね、だから、響鬼でライダーがオートバイに乗らないというのも、さほど驚きはしませんでしたし。

そういえば、劇場版響鬼の脚本が井上氏で、プロデューサーが白倉氏なのだそうですが、
大丈夫なのでしょうか?
この二人は去年までの「自分の欲望を満たすためだけに戦うライダー」を先頭切って、牽引してきた代表格で、しかも井上氏は「正義には興味が無い」とまで公言している人なので、不安を隠せません。
確かに、このひとの脚本は面白いのは、去年のブレイドでわかりましたし、認めます。でも、その面白さは、前半のメイン脚本だった、今井氏の脚本が面白くない、という比較対照が合ったからで、そのブレイドの話でもレンゲル登場の数話と、たこ焼きの話、そして、ティターンがライダーに化けて、同士討ちさせようとした話と、話的にはメインではない話がほとんどですし、ティターンの話は、ライダー同士が疑心暗鬼に駆られ、同士討ちをするか? と思わせて、というシチュエーションで、ひとを守るために戦うライダーというのを正面から書いていたわけではありません。

彼のいうとおり、力そのものには善悪はないのかもしれませんが、だからといって、何をしても言いという者ではないし、大きな力を持って、自分の好き勝手に振舞うというのは、誰にでもできることですから、そんなのヒーローとは呼びません。ましてや、仮面ライダーというジャンルでは、最初は、復讐といった、己の個人的な目的のために戦っていたのが、戦いの中で、「それだけでは駄目だ」と気付くことで、ヒーローに成長していく姿がかかれるスタイルがポピュラーです。そして、その雄姿は、今の世の中、ネットや店頭販売されているDVDなど、情報伝達や流通の発達で、見たければ見ることが出来るのですから、自分の好き勝手なことだけしかしないライダーというのは、よほど、キャラに魅力が慣れば、見劣りがしますし、もともと、ライダーというのは、敵組織の怪人と同じフォーマットで作られているわけですから、怪人と何が違うのか、ということを示さないと、単なる怪人同士の内輪もめに過ぎず、その話に見せられる人間は、限られると思うのですが・・・・・。
某有名漫画のセリフにもあるではないですか、

おれたちに出来ないこと平然とやってのける。そこにしびれる、憧れる!!

と。

この場合は、ディオがジョジョの恋人強引にキスをするという状況だったが、えてして、ヒーローに憧れるという心理構造は、これと同じものだと思うのだ。

正義のヒーローも、強力な力を正義のために使い続けるからこそ、普通の人間には出来ないことをやり続けるからこそ、彼らは憧れや尊敬の対象として、見られるのであり、そして、その中に、普通の人間である自分たちと変わらないものを見出せるから、感情移入できるのだと。
等身大というのは、自分たちと全く同じにするという意味ではなく、努力すれば、己を鍛えれば、それに近づけるかもしれない、そういったものだと思うのです。
自分の欲望のままに好き勝手に生きるなんていうのは、案外、簡単なものですしね。

でまあ、井上氏の得意とするスタンスは、「正義、世界の運命、知らないね、俺はオレで好きにやるさ」というもので、響鬼という作品のスタンスにはなじみにくいと思うのだ。
そもそも、こういった手合いは、「そんなたいそうな理由、しったこっちゃない」といいながらも、「ちっ、しゃーねーなあ」と重い腰をしぶしぶ上げて、何だかんだいいつつ、しtったこっちゃない理由のために戦う場合も少なくないのだが、井上氏の場合は、最近の作品だと、その「ち、しゃーねえなあ」にまで至らないケースがほとんどで、自分の欲望に終始していたと思うのです、草加の様に。

まあ、そうでなくても、力なんてものを持っていれば、それを制御しなければいけないし、そうでなければ、自滅、もしくは、なにかしらの勢力によって、排除されるという運命が待っていますから、正義という信条を掲げていなくても、好き勝手やって言い訳ではありませんが。

劇場版仮面ライダーブレイド「ミッシングエース」では、新世代ライダーたちが、力をえようとして、殺されたり、実はアンデッドが化けていて、ラスボスでした、という使われ方をされてしまい、結局は、剣崎は一度、はじめを封印したのみならず、手をかけざるをえなかった(まあ、だからこそ、TV版の最終回をより、効果的にするという効果もあったが、それは話が別ですしね)という結末で、どこかしら、正義のために、命をかけて戦うということを書くのを避けているような気もしないでもない。
そういったものを信じていないから、自分が信じていないことを本気で書けるわけがないといわれれば、それまでですが、それを書くのがプロの仕事であって、そのために血を吐いてでも、その心境にたどり着こうとするのがプロだと思うのですけどね・・・。それをやらないから、このひとの脚本は面白いけど、いまいち、好きになれないのかもしれませんね・・・。

だから、響鬼のような世界観になじめるような話を書けるのか? という疑問が浮かべずにはいられないのですが、書くとすれば、鬼たちが全員が全員、ひとのために戦っているような責任感の強いものばかりではない、というスタンスで、悪に走ろうとする鬼と戦うという展開になる可能性が大きいでしょう。まあ、皆が皆、響鬼や戸田山のように、魔化魍から人を守ることに命をかける、責任感のある人間ばかりではないでしょうけど、戦国の時代の話というらしくて、このコンビのやりやすいように設定しやすい舞台設定だと思いますが、お願いですから、本編にヘンな影響が出さないでくださいと願うほかありません。

去年のブレイドも、後半は、ミッシングエースというとりあえずの回答が出ていたので、それを大きく意識して、作中の話展開を見ざるを得ませんでしたし、色々な意味で、平成ライダーに対する影響力は、良くも悪くも大きいのですからね、このコンビは。
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by kwanp | 2005-05-31 10:56 | 特撮